やっぱり人生は厳しい
『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』岸見一郎、古賀史健

 人が幸せになるためにはどのように生きればよいのか、ということが2冊を通じて非常に明晰に論じられている。明晰過ぎて少しドライな印象を受けるほどですらあるし、突き放されているような気にもなる。

 ざっくり要約してみる。アドラーの説く幸せな生き方を理解するには、自己受容、他者信頼、他者貢献の3つの概念が重要になる。自己受容、自らを愛し受容すること。他者信頼、自らと同じように他人を愛し信頼すること。他者貢献、他人を信頼し自分の仲間と思えるようになることで、他者へ貢献しようとすること。これらは独立しているわけではなく、他者貢献できているという手応えが自信になり、自己受容できるようになるし、自己受容できていれば、他者に裏切られることを必要以上に恐れずに他者を信頼できるようになる。このように、それぞれが円環的につながって成立している。そして、他者を信頼して他者貢献を志向することを共同体感覚と呼ぶ。

 注意が必要なのは、他者を信頼し他者貢献していくことが説かれているのだが、他者からの承認が目的になってしまうことは良くないとされ、承認欲求に振り回される状態からはむしろ抜け出さなくてはいけないと強調されていることだ。他者への貢献というのは、職場の誰かとか、親とか、そういった特定の人間関係に限定されるものではなく、人類や地球といったより大きな共同体への貢献を志向しなくてはいけない。

 そして、無条件に他者を信頼することが求められるが、相手がその信頼に応えてくれるか、こちらの貢献を肯定的に受け取ってくれるか、は問わない。それは課題の分離と呼ばれ、他者を信頼し貢献するのは自分の課題だが、それにどう応えるかは相手の課題なので、分離して考えなくてはならず、他者の課題には踏み込んではいけないのだ。

 以上が、2冊を通じた主張のざっとした要約になる。理屈としては分かりやすいが、はて、自分がそんな風に生きられるだろうかと考えるとなかなかに厳しい。まず、共同体へ貢献できている感覚があれば自己受容できるはずだとされているが、人類や地球といった大きな共同体に対して自分が貢献できていると自信を持って判断できることなんてあるんだろうか。自分の独りよがりでもなく、身近な他人からの承認にも左右されずに、その判断軸を持てるなんてあり得ないような気がする。特に課題の分離を掲げると、自分の貢献を他者がどのように受け取ったかという点に基準を置けなくなるのでなおさらだ。「貢献」という自分以外を対象にした働きかけを主眼に置いているのに、他者の応答を気にしないということは一見矛盾しているようにも感じられる。あくまで自分が正しいと考える中での「貢献」は、独りよがりと紙一重だ。他者の課題に踏み込まず自分の考える中での貢献をしながら、それでいて独りよがりに陥らないためにはどうすればいいのだろうか。

 アドラー心理学の最終的に目指すところは、精神的に自立していて、なおかつ自分から解放された状態だという。自立できていない状態というのは、他者からの視線や評価を気にしていて、承認欲求にとらわれている状態で、他人を通してしか自我を保てない状態とも言える。つまり、自立できていない状態では、他人を思って他人を気にしているのではなく、自力で自分の存在価値を信じられないから、他人の視線を気にするのである。あくまで、「自身のため」というのが根底にある。ここを抜け出し、自分の存在価値を自力で信じられるようになると、他者の評価は必要なくなるので、他者との関わり方の中に「自分のため」を入れなくて済むようになる。つまり、自分から解放されるのだ。

 この境地までいくと、自分のためでもなく、他者からの承認にも左右されず、他者貢献を志向することができるようになるのだろう。

 やはり、こうやって整理し直してみても、とても難しく厳しい生き方に思える。ただ、なるべく自分の欲や周りの視線とうまく距離を取りながら、なおかつ自分以外の誰かのためになるような生き方をしたいし、それができていると実感できれば心の安寧を感じられるだろうということは、なんとなくわかる気がする。

 アドラーによると、誰でもいつでも変わることができるし、幸せになることができるが、幸せな生き方を始めてからも、厳しい道のりが続くし、迷ったり悩んだりするたびに、その都度正しい道を探す試練が待っているらしい。

 本書は、そしてアドラーは、明晰に練り上げられた理想論を提示してくれるし、私たちはそれを受け取ることができる。しかし、受け取った時点ではまだ何も始まっていない。本当に理想の道を歩いていけるかは、受け取った自分が毎日をどう生きていくかにかかっているし、結局その試練は一生続いていくのだ。

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